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私の愛読書

 「 北溟館物語」または「荒涼館」(ディケンズ)

1 「 北溟館物語」とは

 いつも行く地元の図書館の裏手にちょっとした石畳の広場がある。アメリカフウやケヤキなどの高木が緑のドームのように周りを囲んでいる。雨の日のほの暗い緑陰と石のベンチとぬれた敷石の感じが、ある本の光景と重なった。
「 北溟館物語」という本である。昭和11年に発行された「ヂッケンス物語全集」のなかの一冊で、その扉にこの挿し絵(宮本三郎画)があった。
 

小学生の頃、母の蔵書からみつけて読んだ。以後この本は私の愛読書になった。
ディケンスの小説はたくさん翻訳されているが、原題を「Bleak House」というこの本は、ディケンズの書誌に「淋しい家」という仮題で紹介されるだけで、完訳は長く出なかった。「 北溟館物語」は抄訳・翻案である。
 完訳が出版されたのは1969年、筑摩書房の世界文学大系の一冊として出た「荒涼館」である。(その後文庫本にもなっている)
 大学生の頃、丸善でペーパーバックスを注文して自分なりに翻訳を試みたが、センテンスの長い文章で手に負えず、あちこち、さわりの所だけ訳している内に、完訳の「荒涼館」が出た。

「 北溟館物語」と改めて読み比べてみると、簡約ではあるがほぼ原作に忠実だった。
ただ、登場人物の名前や地名はすべて日本名になっている。
地名には標準的な漢字名が当てられる。
 London(倫敦)
  主な物語の舞台、高等法院がある
 Hertfordshire(鳩津州)
  物語の中心、北溟館がある
 Lincolnshire(林昆州)
  サー・デッドロック(稲毛男爵)の荘園の館 Chesney Wold
  (久遠荘)がある。
  陣野氏の親友梅村の敷地が境を接している。
  エスターたちが訪問する。そして、扉絵の出会いがある。

人物名は、
主人公のEsther Summersonは「篠原恵美子」
 日本名も爽やかでいい名前である。
彼女の後見人(guardian) Jarndyce氏は陣野氏、
陣野氏の親友Boythornは梅村、
陣野家の寄食者Harold Skimpoleは石鴻先生、うまく音を似せてある。
のちにエスターと結ばれるAllan Woodcourtは加古医学士。

エスターと共にジャンディスに引き取られた若い男女がいる。
エスターの親友になるAda Clare(呉綾子)
その遠い従兄弟であるRichard Carston(軽部利喜夫)。
 リチャードは才気ある好青年であるが、ジャンディス裁判の行方によっては大きな遺産相続の
見込みがあるばかりに、なかなか定職に落ち着けない。
この日本名はよく役どころをおさえていると思う。
浮浪児 Joe は「清公」。社会の最下層で生きている少年だが、とても大事な役どころを果たす。
上流社会にくいこむ悪徳弁護士のTulkinghornは「滝本弁護士」。
 これらは主要な登場人物。ほかに個性的な人物がたくさん出てくる。

エスターの父はCaptain Howdon(本田大尉)、
 死んだと思われている人物で間接的に語られ、物語の表に出ないまま貧窮の内に孤独死する。
 法廷文書の筆耕をして糊口をしのいでいた。世を忍ぶ名前は不識庵(Nemo)。

「北溟館物語」にしかない創作がある。
ロンドンの裏町にある「蓬莱館」という名前の木賃宿である。
原作では木賃宿には名前がなく、路地に名前がついている。-Tom All Alone's-(右図)
 清公はここで道ばたのゴミを掃いたり雑役を言いつかって暮らしている。不識庵がよく声をかけてくれた。
「清公、きょうはおれも文無しだ」と。

ここはディケンズによる架空の通りであるが、いまでも19世紀ロンドンのスラム街の象徴的な呼び名として引用されている。

初版出版当時の挿絵で「 北溟館物語」(「荒涼館」)の場面を眺めてみよう。

 以下次号


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